システムエンジニアを辞めました
5/31退職なので厳密にはまだ辞めてませんが、
本日で最終出勤日を迎えたのでつらつらと今までの社会人人生を振り返っていこうかと思います。誰向けに需要があるのかわからないですが、たまにはこういったのもいいかなと思います。
- スペック
- 社会人1年目~2年目:初めてのシステム改修
- 社会人3年目~4年目:初めての金融・客先常駐
- 社会人5年目~6年目:海外出張を経験・でも英語は話せない
- 社会人7年目・なれない汎用機
- 社会人8年目・転職決意
- まとめ
スペック
- 現28歳 専門学校卒
- 2012年 入社
- 2020年5月退職予定
- 約6年、金融業界で客先常駐のSEをやっていました。
- 資格は応用情報、LPIC Level1, 漢検2級、TOEIC450くらい、英検5級
- 2020年6月からWeb系に入社予定
という低スペック男子です。はい。
あまりスペックとしては面白みがないですね。
社会人1年目~2年目:初めてのシステム改修
2012年に社会人1年目として入社します。この時は20歳でした。
人事研修を終えてそのときは社外システムやWebサイト保守の担当するチームに配属されました。その時は着任して1週間くらいで応用情報の合否発表があり無事合格してました。その時は「優秀な奴が来た」と言われて若干調子に乗っていました。
入社1年目ではWEBサイトの保守作業と、社外が開発した社内向け電子公告のようなシステムの保守業務をやっていました。WEBサイトは先輩社員の方に教えてもらいながらできたのですが、電子公告システムはそうではありませんでした。
そもそものアサインの時から
リーダ「ロレンス君って、専門学校でJava勉強したことあるんだよね?」
私「はい、簡単な構文程度ならあります。」
リーダ「じゃあさ、電子公告システムの保守やってもらえる?」
私「でも私、Java知っているといってもほとんど初心者ですよ?」
リーダ「大丈夫。チームの誰もJava知らないから誰がやっても同じだからさ。よろしく!」
と言われて仕事振られました。
正直「ええ、、、???」という感じでしたがサラリーマンである以上は断れません。
その電子公告システムはJavaServletと今は亡きActionScript(Flash)で作成されたプログラムなのですがこれを一人で保守することになり当時は本当に分かりませんでした。
環境構築もそうですが、ActionScriptもわからないので参考書を購入して徹夜で勉強することもありました。自分の不甲斐なさが情けなく結構泣きながら仕事してましたね。良く辞めなかったな自分。
そんなこんなありましたが、
何とか慣れてきたものの普段の業務に物足りなさを感じてきました。
当時の部長に対して面談をする機会があったのですが、
直接「私は保守ではなく開発がしたいです。」と訴えました。
そうすると数週間後に「親会社の方でJavaプログラミングができる人を募集している開発案件があるらしいんだけど、どう?」といわれ「分かりました。」と回答しました。
その後は拠点を客先常駐先である品川に移し、金融SEとしての一歩が始まります。
社会人3年目~4年目:初めての金融・客先常駐
品川拠点を移し、金融業界のプログラマ枠として配属されます。
そもそも客先常駐とはお客さんのオフィスに常駐する形で勤務することを指します。いろいろな事情がありますが金融系などセキュリティが強めにしているところは多いですね。
今までずっと本社で働いてきたのですが常駐先ということもあり今までの雰囲気と全く異なりました。まずとにかく縛りが強く、勤務中は携帯を机上に出すの禁止、雑談・私語禁止などともかく色々なもの禁止されていました。
他にも食堂は客先社員は使ってはいけないなどのルールもありました。これは多分独自ルールだったのかなと思います。ともかく色々と制約が多かったのを覚えています。
しかしながら客先勤務が初めてだったので、「どこもこんなものかな?」程度に思っていました。
技術的な話に戻りますがJavaEEやEJB, Tomcatなどを利用したWebアプリケーションパッケージの導入・付帯開発などがメインでした。対応していた保守案件と比べて案件規模も大きく海外拠点含め4年ほどの長期プロジェクトです。
とはいえ、Web周りの技術は基本的にベンダーの分野となり我々はパッケージ商品が行えない機能やインターフェイス周りの開発がメインとなっていました。
また、金融系のパッケージソフトであるため金融系の業務知識も必要で最初の半年くらいは全然よくわかっていませんでした。ただこれらの情報は仕事を進めていくうちに自然と身についていきました。当初はポンコツもいいところですが人間不思議なもので続けていくうちに身についていくものです。あきらめないことが大切ですね。あと当時は勤務時間が9:00 - 22:00くらいが普通だったので割とオーバーワークでしたね。その分成長もできましたが。
その中でもサブシステムの開発を担当していたのですが設計から導入まで1年かけて何とかやりきることができました。その後実績を買われて23歳の時にはチームリーダにアサインされたこともあります。
チームリーダではさらに勤務時間が悪化し09:00-24:00などが普通で、
その時は運が良ければ終電ダメならタクシー、もっと遅いならその辺でといった感じです。
- 終電
- タクシー(自腹だったので金がどんどん減りました。)
- ファミレス(あんまり体は休まらなかったです。)
- カラオケBOX(止まってみたのですが、ここは寝泊まりするもんじゃないです。)
- 会社に泊まる(寝袋がったのですが真冬は凍えそうでした。)
ということもありましたが、何とかリリースまでこぎつけることができました。
社会人5年目~6年目:海外出張を経験・でも英語は話せない
チームリーダから再び一メンバーに戻りますが、この時は海外出張など経験させてもらいました。海外拠点にもリリースするシステムだったので、「現地メンバーのサポートのために出張させるメンバーが必要だ。」という話が上がった時に自分にも話が来たのでまたとないチャンスと思い立候補しました。
他にも何名か声は掛かっていたそうですが、不思議なことに私以外は全員行きたがらなかったそうです。色々事情があるんでしょうがもったいないですねー。
ちなみにお客さんからの私の評判はあまり良くなく「本当にロレンスで大丈夫かよ?」という反応だったらしいのですがそこはPMが「こいつならやれます!」と推してくれました。なんだ神か。
果たして出張ですが、運よく?現地で発生した障害などを解決できたりと次第にお客さんの評価も上がっていき「次も来てほしい」と要望されるようになり最終的には海外3拠点に対して合計で半年ほど出張することとなりました。
あ、ちなみに英語は話せません。「Can I have (~ください)」くらいは言えますけど自己紹介もできないくらいです。一緒に同行されるお客さんが英語ペラペラだったので技術ができれば問題なかったというのもありました。
でも、海外出張先の周年記念パーティに参加したときは英語で業務内容を紹介してくれと言われて全然話せず赤っ恥となったことはありますね。。。(思い出すたびに足バタバタしたくなります。)
色々ありましたが、この時点で「自分はこの客先では活躍できているけど他の拠点ではどうなんだ・・・?」という疑問に悩まされ一度転職活動をしていました。
しかし結局忙しくこの時は一旦見送っています。
社会人7年目・なれない汎用機
ここではまた別のお客さんで別システム(汎用機系)を対応していました。
かなり古いシステムで独自のバッチ言語など様々な特殊な仕様があり最初は悪戦苦闘していました。が最終的には特に大きな問題なく対応できました。
しかし社内の人間関係ではあまりよくなく、「あまり仕事早くないよね。」とか「全然質問しないよね。」とか結構きつめのこと言われてしまいます。
特段問題なくコミュニケーションしている認識でしたが、そういった評価を下されたことで少し落ち込んだこともありました。
しかしそういった評価を下す = 自分の能力が低いというわけでなくあくまでもその人の目にはそう映ったというだけのことです。(実際私にそういったことを言った自身が逆に評判が良くない人だったりしました。)
このあたりで私は改めて「会社がアサインできる仕事・人は限界がある。」という点を理解します。嫌な人と一緒に働くのは馬鹿らしいし、つまらない業務をやるのもよくないし会社から回される仕事を選ぶしかない・やりたくな仕事をいやいややる状態になります。
この状態が続くのは馬鹿らしいなーと思っていた矢先に 別拠点から全拠点での腕を見込まれ再度異動します。
社会人8年目・転職決意
再び金融パッケージソフトの案件に戻りました。
今までの経験を活かして特段問題なく業務はこなせましたが、この時に色々と考え直して最終的に転職することを決意しました。詳細は以下のブログに記載しています。
まとめ
ということで、8年間SE(6年間は金融系SE)として働いてきましたがこれで退職して新しいスタートを切ることに決めました。
正直勤務予定のWeb系企業はWeWorkが勤務地で外国籍エンジニアが半分といわゆるキラキラしたWeb系のイメージが強いです。この業界に飛び込んで果たしてやっていけるのか・・・という疑問はありますが何とか食らいついていきたいと思います。